組合についてtop

加盟料亭

所属芸妓





神楽坂花柳界の歴史

【江戸時代】
 神楽坂に「牛込花街」(現在の神楽坂花柳界)が開けたのは江戸後期の安政4年(1857)のことです。
 当時の神楽坂は、明暦3年(1657)の「振り袖火事」後、府内から移転してきた多くの武家屋敷ですでに坂の両側が埋めつくされおりました。また、江戸中期に毘沙門天善國寺が麹町から移転して以降は、江戸でも一、二を争う多くの参詣客が訪れ、特に、善國寺の縁日に加えて、同寺院境内にある出世稲荷も縁日を開くようになると、この両縁日、神楽坂はまさに“立錐の余地もない”ほどの大変な賑わいを見せたといいます。
 このように活況を呈していた神楽坂の行元寺境内(現在の神楽坂5丁目あたり)を発祥の地として、安政4年、花街が開かれたのです。

【明治・大正〜昭和初期】
 明治以降は武家屋敷が撤去され神楽坂は町人の街となりましたが、その後の商業の発展とともに、花街も日一日一日と発展を遂げていきました。
 明治42年には牛込芸妓組合が、他の花街に先駆けて初めて芸妓志願者の試験を行うという先端ぶりも発揮しています。

 大正12年の関東大震災後、幸運にもその火災を免れた神楽坂には、松屋、三越、白木屋、銀座の資生堂などが引越してくるなど、まるで帝都の中心が移されたかのように、一段と賑わいを増したのでした。

 実は「山の手銀座」という名称の発祥地も神楽坂だと言われております。銀座もそうであるように、大正〜昭和初期の神楽坂は夜ひときわ賑わいを増す盛り場でした。特に、神楽坂は灯のともる頃から夜10時過ぎまで車馬一切の通行を禁止するという「歩行者天国」であったため、夜の散策者にとっては理想的なプロムナードでした。しかも、花街への自動車道路の電気標識が、外濠の濠端から神楽坂を挟んで左右に出ており、「歩行者天国」でありながら花街への足は奪われていないという工夫は、当時の牛込花柳界自慢のものだったといいます。
 艶っぽいお座敷着の芸者衆が、夜店を楽しむ人の群れを縫って、右から左、左から右へとお出先への行き戻りに振りまく脂粉の香り……まさに神楽坂ならではの大変親しみやすい情感であったと伝えられております。

 戦前の神楽坂花柳界最盛期であった昭和12、3年当時、牛込三業会(現在の東京神楽坂組合)は、芸妓・幇間合わせて約600名、料亭・待合約150軒の大所帯でした。

Copyright (C) 2006 Tokyo Kagurazaka Kumiai. All Rights Reserved.