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【明治・大正〜昭和初期】 大正12年の関東大震災後、幸運にもその火災を免れた神楽坂には、松屋、三越、白木屋、銀座の資生堂などが引越してくるなど、まるで帝都の中心が移されたかのように、一段と賑わいを増したのでした。 実は「山の手銀座」という名称の発祥地も神楽坂だと言われております。銀座もそうであるように、大正〜昭和初期の神楽坂は夜ひときわ賑わいを増す盛り場でした。特に、神楽坂は灯のともる頃から夜10時過ぎまで車馬一切の通行を禁止するという「歩行者天国」であったため、夜の散策者にとっては理想的なプロムナードでした。しかも、花街への自動車道路の電気標識が、外濠の濠端から神楽坂を挟んで左右に出ており、「歩行者天国」でありながら花街への足は奪われていないという工夫は、当時の牛込花柳界自慢のものだったといいます。 戦前の神楽坂花柳界最盛期であった昭和12、3年当時、牛込三業会(現在の東京神楽坂組合)は、芸妓・幇間合わせて約600名、料亭・待合約150軒の大所帯でした。 |
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