
神楽坂花柳界の歴史
【戦後】
軍事景気も手伝って順調な発展を遂げた戦前の神楽坂でしたが、昭和20年、戦災で焼け野原となり、残ったのは銀行の建物などわずか数軒といった壊滅的被害を受けたのでした。花柳界も当然全滅の状態となりました。
しかし、神楽坂の街も花柳界も戦後の立ち直りは早く、昭和25,6年には急速な復興を遂げ始めました。
そして、古賀政男先生にご贔屓になっていた神楽坂はん子が、「こんな私じゃなかったに」で歌手デビュー。その後、「ゲイシャ・ワルツ」が大ヒットするなど一躍スター歌手となり、神楽坂花柳界も全国的に名を馳せることになりました。
神楽坂はん子が活躍した昭和30年代は、神楽坂花柳界の戦後の最盛期でもあり、芸妓数200名以上、料亭も約80軒を数えました。
【昭和40年代〜現在】
その後の高度成長期、バブル期、そしてバブル崩壊後の平成不況……と、神楽坂花柳界も時代の波の中で紆余曲折を経ながら、現在は東京神楽坂組合所属の芸妓約30名、料亭9軒となっています。
しかし、つねに神楽坂の伝統を担う者としての自覚をもって、今も、芸妓一人一人、日々芸の向上に精進しております。
平成11年には、こうした妓芸を皆さまにご披露する場である「神楽坂芸妓をどり 華の会」を毘沙門天善國寺にて開催いたしました。その後、「華の会」は年に1度の恒例行事となり、現在では新宿区、東京商工会議所新宿支部、新宿区観光協会等々のご後援も頂戴して、お陰様で毎回満席の大好評を得ております。
神楽坂花柳界が新宿区ひいては日本の文化芸能の向上に少しでもお役に立てるよう、組合員一同心を新たにさらなる研鑽を重ねる覚悟でおります。
参考資料:『牛込華街讀本』(昭和12年 牛込三業會)
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